震災発生時、南三陸ホテル観洋には多くのお客様やスタッフがいました。その後も続々と地域住民の方などが避難してきたため、当日300名以上、翌日には600を超える多くの方々と共同生活が始まりました。
直後は津波に襲われる市街地の様子をみて泣き出し、動けなくなる若い社員もいた為、女将はスタッフへ「心を強く持って」と繰り返し伝え続けました。また、お客様方へも「私共も精いっぱい務めさせていただきます。何卒ご理解、ご協力お願い致します。」とお話をさせていただきました。全てのライフラインが止まり、孤立していたため情報も十分ではない中でしたので、調理責任者には今ある食材で、まずはみんなが1週間しのげるメニューを考えるように指示を出しました。それぞれが各持ち場でリーダーシップをとり、判断をしながら何とか生き抜くことができました。
1週間後道路の一部が通れるようになり、ようやくお客様方をお送りすることができましたが、そのまま一時避難所、そして二次避難所となり被災した住民の方々600名、医療、学習支援の方々、警察、ライフラインの工事関係の方含めて常時1000名の方々とまた共同生活が始まりました。
数多くの課題が毎日のように起きましたが、その都度、皆で考え、地域の方々と協力し合いながら何とか乗り越えてきました。世界中からの温かいご支援もあり、8月の末まで続いたこの生活の中で今までなかった新しい絆が生まれ、それは現在でも続いています。
震災講話では、あの日から現在まで続く私共の実体験と、その時々にどう考えて行動してきたか、又それを通して気づいたリーダーシップの重要性や、課題解決に向けて前を向いていく姿勢、人々とのつながりの温かさと大切さをお伝えしております。
時間が経過する中で当時の話しだけでなく、その後の地域復興と活性化、そしてコロナ禍の取り組みについてもお話をさせていただいております。
2016年に開催した第1回「全国被災地語り部シンポジウム」は、「東日本大震災」をはじめとする災害の記憶と教訓を後世に伝えるために、当館が発案し、「阪神・淡路大震災」に遭遇した地域の方々にお声がけして実行委員会を立ち上げ、開催をスタートしました。
語り部活動に取り組む人々が集まり、情報共有や意見交換を行うイベントです。このシンポジウムは継続的に開催され、被災地での体験談や復興の現状、語り部活動の意義や課題について議論されています。
南三陸ホテル観洋では、東日本大震災の記憶や全国各地の被災地の記録を後世に伝えるため、震災当時の写真や説明パネルを館内に展示しています。
あの日の出来事や被災地の様子、復興への歩みを振り返ることで、命の大切さや防災意識を考えるきっかけとしていただけます。
この展示は、地域の歴史や現実を学ぶ貴重な機会でもあり、当館を訪れる方々にぜひ見ていただきたい内容です。
ご宿泊のお客様だけでなく、一般の方もご覧いただけますので、どうぞお気軽にお立ち寄りください。
2011年3月11日に発生した東日本大震災の津波により、市街地の8割が流出した南三陸町。
当ホテルでは、行き場を失った近隣住民をはじめ、医療関係者やボランティア、報道関係者、警察など、多くの方々を受け入れました。
震災から8月末までの半年以上にわたり、600~1000名以上の被災者の避難所として、また共同生活の場として機能しました。
その中で、親御さんから「子どもの教育が心配で悔しい」という嘆きを多く耳にし、子どもたちの学習支援の必要性を強く感じました。
そこで、ホテル内の4室を開放し、ボランティアの協力を得て独自の寺子屋(学習支援)をスタートしました。
その後、地元でそろばん塾を運営していた先生が津波で教室再開を断念したと聞き、ホテル内でのそろばん塾開講をお誘いしました。
こうした取り組みを通じて、子どもたちが学び、成長する姿は、多くの被災家族にとって大きな希望となりました。
町の復興は少しずつ進んでいますが、鉄路の復旧が無い中、近隣市町村への移動手段が限られているため、子どもたちの学習支援は依然として大きな課題です。
震災から13年が経過した現在でも、4歳から15歳までの40名以上の子どもたちが寺子屋(そろばん教室)で学んでいます。幅広い年齢の子どもたちが共に過ごすことで、世代を超えたコミュニティが形成されています。
先生方も高齢化が進む中、現在では当館スタッフがホテル業務と兼務で指導にあたり、ホテルとしても重要な取り組みとなっています。
海を見下ろす丘の上には「南三陸大仏」が鎮座し、また「津波てんでんこの石碑」もあり、東日本大震災で亡くなられた方々の慰霊の場となっています。